「流暢な発音の英語で発言できるのだから、我々と同じ土俵。同等以上の英語表現で、かつ中身のある発言をすれば認めてやる。今の発言は、その観点からは失格」といった厳しい見方をされてしまったのではないかと思う。

逆説的な物言いになってしまうが、自分が米国のビジネススクールを卒業できた理由の1つは、話す英語のレベルがかなり低かったからだと、真剣に思っている。
日本で生まれ育ち、中学で初めて英語を習う、という典型的日本人として、33歳で留学した時は、本当に不安だった。授業中の発言回数と内容が成績の5割を占め、ここがうまくいかないと進級できない、という学校だからだ。
 大学の時に米文学を専攻したので、ある程度の読み書きはできると考えていたが、これとて、大量の宿題をネイティブ同様のスピードでこなせるはずもない。前夜こなした宿題の内容をもとに、90分間猛スピードで議論が続く授業が毎日2ないし3コマ。恥ずかしながら、30歳を過ぎて初めて英語圏に住むことになった自分が、この議論に参加し、意味のある発言をするのは至難の業に違いない、と戦々恐々としていた。

実際の授業で起きた意外な事態


 実際に授業が始まってみると、面白いことが起こった。90分の授業の中で、発言を求める側の生徒が90人。エアタイム(発言時間)を求めて、こちらも手を挙げて発言を試みる。首尾よく当ててもらって、話し始めると、周囲の議論のリズム・スピードに合わせようとするあまり、しどろもどろになってしまう。
 ああ、これはだめだ、と思っていると、不思議なくらい、教師もクラスメートも一生懸命に聞いてくれるのだ。中には、「彼が言おうとしていたのは、こういうことだと思う。それに追加して、自分はこう思う」とこちらの意図(時にはそれ以上のもの)を補足してくれる同級生まで現れた。
 幸運なことに、私には留学前に10年強の勤務経験があった。後から分かったのだが、20代後半の勤務経験が浅い欧米人が多いクラスの中では、経験に基づいた発言をできるだけ理解しよう、取り入れよう、という雰囲気があり、これが幸いしたのだ。もちろん、言葉が十分にできない外国人をサポートしてやりたい、という米国人特有のフェアネス感覚もあったように思う。
 中味が面白ければ、つたない英語でも聞いてやろう、という期待に必死で応えているうちに、現実と遊離した議論が続いたりすると、自動的に発言機会が回ってくるようにもなった。発言回数が少ないと単位を取れない学校への留学生としては、これは本当にありがたかった。
 残念ながら、進級できない羽目に陥る日本人の先輩・後輩もいたのだが、驚いたことにその多くは、ものすごく流暢に英語で会話する帰国子女の人たちだった。
 典型的なパターンは、幼少期に英語を身に付けたものの、大学教育は英語環境で受けておらず、かつ勤務経験も少ない方たち。周囲の英米人からは「流暢な発音の英語で発言できるのだから、我々と同じ土俵。同等以上の英語表現で、かつ中身のある発言をすれば認めてやる。今の発言は、その観点からは失格」といった厳しい見方をされてしまったのではないかと思う。

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